2Q24(上)

【まえがき】

どうも。みふ上春樹です。
前のキモい奴に続いて、あこぎぶろぐを上下に分けて投稿する、さらにキモい奴のお出ましです。

 

さて、今回は、公募でいただいたテーマ、「最高の相方について」に沿って、僕の思いの丈を、存分に綴りました。
そこから連想して、最近アコギ部の話題の渦中にある、MBTIについても想いをしたためてみました。

先に断っておきます。

すみません、少々長くなりました。

 

言葉というマテリアルを気の赴くままに組み合わせ、頭のなかにぼんやりと浮かぶイメージに姿形を与えていく作業はとても面白いもので、没頭しているうちに、ついつい、長文になってしまったのです。

 

しかしながら、願わくばどうかこの時点でブラウザバックしないでほしい。

 

杉本町駅から我らが11B06室に辿り着くまでぐらいの時間を頂戴し、最後までこの文章をお読みいただけるのであれば、そのお返しとして、ちょっとした感情の揺さぶりをプレゼントできることはお約束します。

実を言えば根拠はないのだけれども、そこにはソリッドで、ごつごつとした、確かな自信があります。

 

また、包み隠さずお伝えすると、この文章を執筆しているとき、僕は腹痛に襲われていました。

したがって、この作品は文字通り "お腹を痛めて産んだ" 我が子のようなものであり、母が子を愛するように、僕もこの作品には多少の思い入れがあります。(多少というか、かなり)

 

ですので、お粗末な品物(のような拙文)ではありますが、最後までお付き合いいただけるのであれば、それに勝る喜びはございません。

それでは、よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

【前編 「『最高の相方』について哲学する」】

「最高の相方」ってなんだろう。

5畳ほどの小部屋で1人、チクタクと歩みを進めるデジタル時計の足音を鼓膜の内側に感じながら、そんなことを考える。  

時刻は22時16分。

 

"考えにふける" と表現するとき、一般に、その時間の相場が深夜2時だとか2時半であることは把握している。

それはもちろん、"真夜中に一人、物思いにふける" という場面設定が、一種の情緒性をはらんでいることを理解している、という意味である。

 

しかしながら、そんなものは、僕から言わせてみればオリジナリティに欠けたチープな情景描写であり、平凡で粗雑な表現技法に過ぎない。

 

第一、こうした表現技法に魔力が宿るのは産声を上げたその瞬間のみであり 、他人の手垢がついた途端にそれは、カフェインが含まれていないエナジードリンクのような、ちんけなものへと成り下がる。

 

だから、取り繕うことなく、あえて正直に言おう。

時刻は22時16分。

 

 

 

「最高の相方」ってなんだろう。

人類がこれまで蓋をし続けてきた未解決の命題に、齢二十を2つばかり過ぎた男が立ち向かう。

 

「最高の」と言うぐらいなのだから、それは唯一無二の存在だろうか?性別は同じに限るのか?はたまた異性でも良い?自分だけが相方だと認識していたら?

 

ああ、面倒臭い。

「最高の」なんて、一見深い意義を持つようで、実は具体性に欠けたどうしようもない修飾語が、その命題を難解なテーマであるかのように錯覚させる。

だから、そう。こんなものは、取り除いてしまえばよいのである。

、、、。

 

とはいえ、そもそも「相方」ってなんだろう。

自分にとって「相方」と呼んでも差し支えないような顔を1人、2人と、脳の、ちょうど海馬のほうに意識を傾けながら思い浮かべてみる。

そして、その一人一人との関わり方を懸命に思い出そうとする。

けれども、共通項を抽出し、一般化しようとするとなかなか難しい。

 

そうして頭のなかでグツグツと煮詰まった議論は、再度振り出しに戻る。

時刻は22時34分。

やはり、わざわざ、この、なんの変哲もない時刻を描写する背景にあるのは、使い古された凡庸な表現技法に対するアンチテーゼである。

 

 

あと少しだけ、果てしない広さと深さを併せ持つ思考の海とやらに、ちゃぽりと浸かってみる。

 

うーむ、、、やはり分からない。

ただ、分からないなりに現時点で結論付けるとするならばそれは、「最高の相方とは◯◯である」などと一般化することそれ自体がナンセンスでつまらない、というものだ。

 

至極当然のことではあるが、人によって価値尺度も違えば、他者との関係のなかに求めるものもまるで違う。

また、人間というのは、つねに矛盾の中を揺れ動く生き物であり、論理一貫で語れるようなものでもない。

 

言うなれば、人と人との関係というのは、その一つ一つがオーダーメイドの代物であり、それを一般化して定義付けしようとする行為そのものが野暮なことなのかもしれない、ということである。

 

帰する所、自分が「最高の相方」だと認識するのであれば、その関係は間違いなく、絶対的に「最高の相方」なのだ。

そこに他者の解釈が入り込む隙間など、一切ない。

(あくまでこのコンテクストにおける話である。)

 

「最高の相方とは」という問いに対して、現時点の僕が用意できる回答は、さしあたりこんなものだろうか。

(後編につづく)