2Q24(下)

【後編 「心憂きかな、MBTI」】

「相方」という話題を少々押し広げるが、実は、僕はMBTI診断があまり得意ではない。(押し広げすぎだと言われてしまえば、反論の余地もないのだが)

これは、MBTIを信用していないわけでも、MBTI愛好家が苦手なわけでもなく、MBTIという概念が多くの人々の間で好まれていることに物悲しさを覚える、という意味である。

 

多様性を尊重する動きが、全世界的に推し進められるようになって久しい。

ふとSNSやメディアを覗いてみると、やれジェンダーレスだのSDGsだのと、多様性を訴えかけるような言葉や概念に溢れている。

枠に囚われない生き方を志す者もずいぶんと増えた。

 

そんなリベラルな時流に反するように登場し、流行しているのが、人々を16タイプの性格に区分し、あーだこーだと議論するMBTIである。

 

自由を謳うイデオロギーが醸成されつつあるこの世界を、類型的思想の象徴であるMBTIが席巻する。

そんな皮肉めいた事象の裏側に、多様性を尊重しようとする理性的な働きと、何でも型にあてはめたがる人間の根源的な欲求とのコンフリクト(衝突)を感じ取ってしまい、それがとても息苦しい。

 

文明の進化に伴って人類が獲得した「多様性の尊重」という武器も、同質性を求め、区分したがる人間の本能的な欲求の前には、まるで無力なのだ、と。

そんな事実をまざまざと突き立てられているようで、僕は、鬱蒼とした気持ちに支配される。

黒く覆われた物憂げな何かが、感情の奥底にしぶとくこびりついているような、そんな気分である。

 

MBTIがなんだ。

"みんなちがってみんないい" のではなかったのか。

そういえば、この、今となっては手垢にまみれた、「多様性」という言葉のパラフレーズは誰が言い出したんだっけか。

 

そんな余談はさておくとして、まるでトヨタの自動車を支える一つ一つの部品がモジュール化されているのと同じように、人間一人一人が決まった型番に当てはめられることには、いささか狂気性を感じる。

 

 

 

以前、そんな想いを、僕にとって「最高の相方」とも呼べる相手に打ち明けたことがある。

 

「うんうん、MBTIなんて偏見のようなものでしかないよ。MBTIで人のことが分かったら、そんな楽なことはないさ。」

 

その返答を聞いた瞬間、僕の頭のなかのしょぼくれたスクリーンに上映されるのは、心と心が一本の糸で結ばれる様子を連続的に切り取った短編映画である。

その映画が幕を閉じると、観衆は(つまりは僕一人なのだが、)どこか形容しがたい、絶対的な安心感に包み込まれる。

 

そう、いつだって「最高の相方」と時を分かち合うときには、この大いなる安心感が僕を優しく受け入れてくれるものだ。

MBTIで繋がるような表面的な関係なんかには、きっと存在しない感覚だろう、と高をくくるのはあまりにも傲慢だろうか。

 

しかしながら、そうはいっても自身のMBTIは把握したくなるのが人間の性というものである。

やはり、人間というのは常に矛盾の中をたゆたう生き物だ。

自身の愚かさを少し恥じる。

 

検索エンジンに「MBTI診断」と入力し、最も上に位置するサイトを開く。

すると、なんの前触れもなく「診断」は始まる。

ここでは、診察券と保険証を渡して待合室に腰かけるような、診断前の一工程はないようだ。

 

大半の設問に対して「どちらかといえばそう思う/思わない」にチェックを入れる、ジャパニーズ・サムライ・スタイルで回答を続けること12分。

 

全ての項目を記入し終えると、4文字のアルファベットとその文字コードを象徴するキャラクターが、スマホの画面上部にでかでかと映し出される。

僕のMBTIはESTJというやつで、君のはINFJというやつ。

 

そのまま画面を下にスクロールする。

するとその刹那、僕が、気の抜けた、空虚な笑い声をあげる。

そしてそれに呼応するように、君が、愛想笑いとも取れるような、ニヒルな笑みを浮かべる。

 

 

 

ふはははは。

なんということだろう。

どうやら僕たちの相性は最高らしい。

 

MBTIを忌み嫌う僕たちが「最高の相方」同士であることは、奇しくも "MBTIによって" 示されてしまったのだ。

皮肉という香辛料がピリリと効いた、なんともスパイシーな結末である。

 

、、、、、、、

、、、、、、。

 

 

熱気を帯びる物語の展開とは裏腹に、君の苦手な沈黙が、申し訳なさそうな顔をして、僕たち2人の空間に居候する。

 

「最高の相方」ってなんだろう。

打ち砕く勢いで思い切り投じた疑問の石は、その強さ以上のパワーを持って、僕を目がけて一直線に跳ね返る。

(完)

 

 

  

 

【あとがき】

いかがでしたでしょうか。

ここまで読んでくださったということは、多少は楽しんでいただけたのでしょうか。

 

実はこのブログの執筆は、「ああでもない、こうでもない」と頭を捻りながら文章を削除したり付け足したりする、泥臭い作業の連続であり、"たがだか" あこぎぶろぐに己の全てをかけました。

 

その本気度合いは、何時間もかけて初稿を書き上げ、さらにそれを少し寝かせてからもう二度三度と読み直し、校正するほどです。

句読点1つの位置にすらこだわりました。

 

「たかだかあこぎぶろぐに、なぜそこまでかけるのか?」

そう言われてしまえばそれまでなのですが、これは僕の人生のポリシーみたいなものです。

 

なんてことないような些細なことも含めて、人生の万事に己の全てをかける。

それは遊びだけでなく、仕事や勉強も例外ではありません。

 

僕は、平凡で取るに足らない日常を色付けする洗練された思考や価値観というのは、あらゆる物事に全力で向き合うことによって深化していくと考えています。

たとえ、それが "たかだか" あこぎぶろぐだったとしてもです。

 

このブログの執筆を通して、僕は、そんな自分のポリシーをお伝えしたかったのです。

というと、それはまったくもって後付けでしかないのですが。

 

 

 

大学を卒業すると、僕たちは就職し、「社会の歯車」になります。

けれども、そんな「社会の歯車」にだって、僕は本気で変身します。

 

そこいらの、どこにでもあるような歯車ではありません。

プラダだかシャネルだかカルティエだか知りませんが、そんな一級品のブランドのような、「最高級の」社会の歯車です。

 

"何事にも本気で取り組む"

僕がブログのなかで嘲笑していた、独自性のないしょっぱい表現です。

しかしながら、この一文にこそ人生を存分に味わい尽くすエッセンスが詰まっているのではないかと、心の底から思います。

ですから、この、人生という長いマラソンを走り抜くうえでの基本姿勢みたいなものは生涯大切にしていきたいですね。

そして、願うことならば、いつまでも相変わらず、くだらないものの中に煌めきを探せるような、そんな遊び心のある大人になりたいです。

 

最後に、同期だけでなく先輩後輩も含め、アコギ部の皆さんには本当にお世話になりました。

気付けば男ばかりに囲まれていた気もしますが。

 

まあまあ、それはさておき、また近いうちにお酒でも酌み交わしましょう。

ではでは。